大阪地方裁判所 昭和20年(ワ)394号 判決
原告 氏家正作 外一名
被告 石塚幸次郎
一、主 文
原告等の請求を棄却する。
訴訟費用は原告等の負担とする。
二、事 実
原告等訴訟代理人は「亡氏家丑太郎(原告正作の父にして原告るかの夫)と被告との共同経営に係る大阪市東淀川区本庄川崎町四丁目十六番地及び尼崎市東浜町二十九番地に営業所を有する大阪特殊製鉄所は昭和二十三年三月十五日解散せられたことを確認する。被告は右大阪特殊製鉄所の清算人となり之が清算手続を為すべし。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求原因として次の如く述べた。
第一、昭和十一年四月二十六日氏家丑太郎は被告との間に組合契約を締結し、後記第二に述べる如き経過を辿つて大阪特殊製鉄所なる名称のもとに製鉄事業を共同経営して来た。ところが右経営については後記第三に述べる如き事由により丑太郎と被告との間が漸次疎隔を来し共同経営を継続することが困難な状況となり、ために丑太郎は組合の解散を主張して永らく紛争を続けて来たのであるが、昭和二十三年三月十五日丑太郎は遂に死亡するに至つた。而して民法の規定によれば、組合員は死亡に因り組合から脱退すると定められているのであるが、本件の如く組合員二名のみによつて構成せられている場合に於ては、組合の本質上その一人の死亡によつて組合は当然解散となるものと解すべきであるから、丑太郎の死亡によつて大阪特殊製鉄所は昭和二十三年三月十五日限り解散せられた訳であり、原告両名は亡丑太郎の相続人として組合解散により丑太郎が財産の分配を受くべき権利を相続したものであるから、茲に右解散の確認及び被告がその清算人として清算手続を為すべき旨の裁判を求めるため本訴請求に及んだものである。
第二、そもそも丑太郎と被告とが右共同事業を営むに至つた経緯は、
(一)、(イ) 昭和九年当時丑太郎は大阪市浪速区木津川町に本店を有する丘商事株式会社の取締役をして居り、被告は布施市で鋳物工場を経営して居り、その頃丑太郎が被告に古鉄を売却したことから互に相知る仲となつたのであるが、その後被告は鋳物工場の経営に失敗し丑太郎に援助を求めて来た。そこで両者が相談の結果被告の学友で当時大連に於て大華電気冶金公司の社長をしていた上島慶篤から「スチールスクラツプ」代用銑鉄の供給を受けて之が販売事業を丑太郎と被告が共同して経営することとなり、前記昭和十一年四月二十六日その旨の組合契約を締結した(甲第一号証)。当時被告は無資産の状態にあつたので、丑太郎は該事業を始める為の運動資金及び被告の生活費の一部までも支出し、被告は上島からスチールスクラツプの供給を受けるため奔走したが、結局その供給を受けることが出来ずに終つた。
(ロ) 然しながら其の際上島からスチールスクラツプを供給する代りに鉄の原鉱石を供給するから内地で製鉄事業を経営したらよかろうとの奨めがあつたので、被告と丑太郎もその奨めに従い内地で製鉄事業を共同して経営することに決めた。
(二)、(イ) その後丑太郎と被告が協議の結果内地に在る廃物利用による製鉄即ち染料滓を原料として製鉄することを目論み、丑太郎が和歌山県へ赴いて由良染料株式会社から染料滓を入手し、被告は之を材料として研究を始めた。ところが此の研究の結果スケール(酸化鉄)を原料とする方が有利と認められるに至つたので、丑太郎は大阪市港区所在の朝潮伸鉄工場からスケールを入手し、被告が之を材料として研究した結果数ケ月後になつて漸く酸化鉄を還元して製鉄することを実験室的に成功した。此の間被告は技術者として実験研究に当つたが、丑太郎は自己の費用を以て材料の買入等を担当した外その子たる原告正作をして被告の実験作業を手伝わせ鋭意研究の成功に尽力したのである。
(ロ) そこで丑太郎と被告は協議の上資本金百万円の株式会社を設立して之を工業化せんと計画し、昭和十二年十月大阪市西区京町堀上通一丁目京町堀ビルデイング内に大阪特殊製鉄株式会社創立事務所を設け、同年十二月十日に丑太郎及び被告を加えた発起人会を開いて協議したが、その後株金の払込が思う様に履行されなかつたので該会社は結局設立するに至らなかつた。
(ハ) 然しながら右の様に酸化鉄還元による製鉄方法は既に実験的に成功していることであり、殊に当時の状勢としては国家的にも一日も早く之を工業化する必要があると確信したので、丑太郎と被告の両名は協議の上昭和十三年一月取敢えず実験と工業との中間性を持つた中間工場の建設を計画した。それにしても先立つものは資金であるが、当時被告は全くの無資力であり、又丑太郎が支出した資金だけでは到底十分ではないので、丑太郎は自己の有する信用を利用して資金の調達を図ることとなり、その頃丑太郎の知人上田伊三郎(大阪市西区薩摩堀居住)から金一万八千円を借受け、之を建設資金として大阪市東淀川区本庄川崎町に丑太郎と被告の共同経営に係る大阪特殊製鉄所天満試験工場を建設した。
右天満試験工場での事業は幸い順調な歩みを続け愈々本格的に工業として進出する自信が出来たので、丑太郎と被告は昭和十三年十一月頃更に大規模な工場を新設することに決め、その敷地を尼崎市東浜町に選んで工場建設に取りかかり、その建設資金の調達も殆んど丑太郎が之に当り、丑太郎は同年十二月上京して眤懇の徳島佐太郎から約十万円を借受け、又丑太郎が義兄赤塚五作から借入れた金四万円を野村銀行新町支店及び住友銀行大正区支店へ定期預金として預入れ之を担保として両銀行から約十万円以上の融資を受け、之等金員を以つて建設資金に充て、斯くして尼崎工場を建設し、爾来大阪特殊製鉄所の名称の下に事業を拡大して行つたのである。
第三、以上の様に丑太郎と被告との共同事業に於て丑太郎は資金調達の面を受持つたばかりでなく、元来被告は技術家肌の人で営業方面のことは不得手であり且つその経験も少なかつたので、原料の買入製品の販売その他外部との交渉や取り決め等も殆んど全部丑太郎が之に当り、被告は専ら技術方面を担当し、両者互に協力して事業の発展に努力して来たのであつて、唯昭和十四年七月頃以降は生産が漸次増加したのとその製品の販売先から保証金や代金前払の形式で合計二十二万円程の金員を受取り之を資金として利用することが出来るようになつたので、資金調達の苦労も漸次減少して来たのである。
而して此の間丑太郎は当初は被告の生活費をも援助し、昭和十三年一月頃から以降は給料の名の下に事業収益の中から被告に月額平均五百円を支給して来たが丑太郎は殊更給料の支給を受けず、昭和十四年三月頃から以降は被告に給料として月額六百円を支給し丑太郎は月額三百円を受取り、同年八月頃から以降は被告に給料として月額千円を支給し丑太郎は月額五百円を受取り、尚昭和十五年四月頃利益金として被告に七千円丑太郎に金三千円を分配した。此の様に丑太郎が被告よりも少額を受取つていたのは一に事業の発展と被告の生活の安定を計つたが為であつて、其の間事業に依る収益は挙げて之を事業資金に転換し鋭意事業の充実を計つて来たのである。
ところが被告は事業が隆盛になつて丑太郎の援助を必要としない状態となるや丑太郎の介入を避けんとするに至り、事業の収支の内容を丑太郎に秘して之を明かにしないのみならず、丑太郎が共同事業の一環たる鉱山の経営を担当するため昭和十六年十一月滋賀県海津鉱山へ行き次いで昭和十七年四月頃から岡山県長谷鉱山へ行き昭和十九年六月頃大阪へ帰つて来るや、被告は丑太郎を関西鉄鋼統制組合に転出させ共同事業の経営を独占せんとするに至つたので、丑太郎と被告との間が甚しく不和となり遂に共同事業を継続することが困難な状態に陥入り、丑太郎は民法第六百八十三条の規定に基き組合の解散を請求して本訴を提起するに至り、その後同人の死亡により右組合はいよいよ昭和二十三年三月十五日解散となつたものである。と述べ、
第四、被告の主張に対し、
丑太郎と被告との組合契約は既に述べた如く最初はスチールスクラツプの販売事業を営むことを目的として締結したのであるが、其の後両者協議の上酸化鉄を還元して製鉄事業を営むことに目的を変更したに止り、両者間の共同関係そのものについては始終変りはなかつたのである。
次に被告は丑太郎を支配人格として雇入れたものの如く主張するが、両者の関係は斯る雇主被傭者の関係ではなく、丑太郎が海津鉱山、長谷鉱山の経営に当つたのも単なる被傭者たる鉱山長格として派遣されたのではなく、被告と丑太郎が協議の上共同事業の一部を丑太郎が担当することとなつて赴いたものである。
尚被告は昭和十八年十二月末日限り丑太郎を解雇したと言うが、既に述べた如く丑太郎は被告の傭人ではなく共同事業の経営者であるから解雇という様なことはあり得ないし、殊に丑太郎は後記の如く昭和十九年六月頃迄長谷鉱山の経営に当つていたのであるから、被告の右主張が真実に反することは多言を要しない。
更に被告は丑太郎が右両鉱山の経営に失敗したと言うが斯る主張は当らない。即ち海津鉱山は丑太郎が昭和十六年五月から同年十月迄病気で寝ていた間に被告が丑太郎に十分相談もせずに経営を始めたもので、其の成績が挙らなかつたので丑太郎が病気回復後鉱業代理人となつてその収拾に当り、被告と協議の上出来るだけ損害を少くして整理したものである。又長谷鉱山は丑太郎と被告が相談の上経営することとなり、丑太郎が鉱業代理人として昭和十七年四月から経営を始めたのであるが、鉱山としての見込はありながら昭和十八年十一月頃に至つても採算が合わないので、被告の申出に依りその経営資金を丑太郎が一時立替えて経営することとなつたのであるが、何時までも左様に丑太郎が経営資金を立替える訳には行かないので、昭和十九年六月頃その旨を被告に申入れたところ、被告は従弟の石塚久之丞を代りに派遣したいとの意向であつたので丑太郎は同人と交替して大阪へ帰つたのである。ところが久之丞は其の後間もない同年八月頃同鉱山へ配給された物資を闇で他へ売却し、その事実が発覚して同鉱山を経営して行くことが出来なくなつた為遂に総出資金の元金程度で同鉱山を手離さねばならないことになつて了つたのである。と附陳した。<立証省略>
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、原告主張の事実中昭和十一年四月二十六日原告等先代丑太郎と被告との間に「大華電気冶金公司社長上島慶篤からスチールスクラツプ代用銑鉄の供給を受け販売事業を経営するに付ては丑太郎と共同経営する」旨の誓約書(甲第一号証)が作成せられたこと、及び丑太郎が昭和二十三年三月十五日死亡し原告等においてこれを相続したことを認め、其の余の原告主張の事実を否認し、次の如く述べた。
第一、右甲第一号証の誓約は後に詳述する如く上島からスチールスクラツプの供給を受けることが出来なかつた為実現するに至らなかつたもので、其の後に於ける酸化鉄還元による製鉄方法の研究完成及び之を工業化した大阪特殊製鉄所の創立経営並に之に附帯した鉱山採掘事業の経営は被告の単独事業であつて甲第一号証の誓約とは何の関係もない。
而して丑太郎は昭和十三年九月頃から被告が大阪特殊製鉄所の支配人として雇入れ、昭和十六年十一月頃からは鉱山長格として採掘事業に当らせ昭和十八年十二月末日解雇したもので、その間最初は月給三百円を支給し後には千円を支給し、且つ半年毎に賞与として二千円乃至三千円を支給していたものである。
第二、被告が丑太郎と知合うに至つた動機及び丑太郎と被告との間に甲第一号証の誓約書が作成せられるに至つた経緯は大体原告主張の通りである。
(一)、(イ) 然しながら右甲第一号証の誓約はその文言に依つても明かな如く、将来上島からスチールスクラツプの供給を受け之を内地に移入して販売することが出来る様になつた場合には其の販売事業を丑太郎と共同して経営する旨を約した一つの予約に過ぎず、当時スチールスクラツプの供給を受けることが出来るか否かは未だ確定していた訳ではなく、従つて右誓約には共同事業の経営に必要な出資条件、業務執行の権限、損益分配の割合等については何等定められていないのである。即ち右誓約書が作成せられるに至つたのは、当時被告が鋳物工場の経営に失敗したので被告の学友上島慶篤に援助を求めたところ、上島がスチールスクラツプを供給するから内地で販売したらと言うので、被告は此の種物品の販売に経験ある丑太郎に相談した結果丑太郎も大いに乗気になり是非協力させてくれと言うので甲第一号証を作成したもので、右供給を受けるについては関係方面の諒解を得る必要があつたので被告は右甲第一号証作成の当日直ちに夜行で上京し、同年五月五日迄滞京してその移入許可運動に奔走し、五月十一日再び上京し、更に大連に赴いて極力奔走努力したのであるが、同年七月頃遂に之を移入販売することが不可能となり、ために右予約は実現不能となり本契約を締結するに至らずして終つたのである。
仮に甲第一号証の誓約によつて被告と丑太郎との間にスチールスクラツプ共同販売に関する組合契約が締結されたものとしても、その組合契約は上島からスチールスクラツプの供給を受けることを条件としたもので、その供給を受けることが出来なかつたこと前述の如くである以上共同事業の目的も実現不能となり、右組合は事業に着手するに至らずして当然解散となつたもので、いずれにしても甲第一号証に基く組合は存在しない。
尚被告が前記移入問題で奔走している間丑太郎からその運動費及び被告の生活費の一部を支出して貰つたことはあるが、之は丑太郎から被告が借受けたもので後記第四に於て述べる如く既にその弁済を了した。
(ロ) 尚原告はスチールスクラツプの供給を受けることが出来なかつた代りに、上島から鉄の原鉱石を供給するから内地で製鉄事業を経営したらよかろうとの奨めを受けたので丑太郎と被告はその奨めに従いそうすることに決めたと主張し、甲第一号証の誓約がその目的事業を変更して存続する旨主張するが、斯る事実は全く存しない。尤も前記スチールスクラツプ供給の問題とは全然別個に当時被告が丑太郎に対し「上島が満州開原で所有する鉱山の磁鉄鉱は非常に優良である」と話したことがあり、之に対し丑太郎がその磁鉄鉱を内地に移入して製錬してはどうかなどと言つていたことがある。然しながら斯る事業は代用銑鉄の販売等とは異り莫大な資本と優秀な技術を必要とする大事業であつて、単に古鉄販売の経験しかない丑太郎と被告とが共同事業として経営するなどということは到底不可能なことである。原告が斯ることを敢て主張するのは次の被告が現在経営する大阪特殊製鉄所の酸化鉄還元による製鉄事業と何等かの関係をつける為の橋渡しとする魂胆としか考えられない。
(二)、(イ) 更に原告は右原鉱石による製鉄事業から一転して其の後丑太郎と被告とが協議の上内地に在る染料滓を原料として製鉄することを目論み其の研究に取かかつたと主張するが、酸化鉄の還元による製鉄方法はスチールスクラツプの移入問題以前から被告が研究に着手していたもので、右移入が不可能と決つた昭和十一年七月当時に於ては未だ研究の途上にあつて其の成果が不明のものであり、此の研究が成果を得たのは翌昭和十二年九月頃のことで、愈々之を工業化せんとしたのは同年十二月に入つてからのことである。
而して右研究の材料に供した染料滓は被告の後輩で日本染料株式会社の技師である榎本恵一から貰い受けたもので、原告主張の和歌山県由良染料株式会社の染料滓を丑太郎が入手してそれを研究の材料に供したなどというのは全然事実に反する。右由良染料株式会社の染料滓は当時被告が貯蔵現場を見て知つていたので、之を売つてくれるか否かを丑太郎に確かめて貰つたに過ぎない。又其の後研究の結果スケールの蒐集容易なることに気付き、丑太郎に依頼して大阪方面の所在場所数量等を調べて貰つたことはあるが、原告が主張する朝潮伸鉄工場云々の如きは被告の研究が終つた後のことであり、殊に当時染料滓やスケールは殆んど無価値なものとして伸鉄工場や其の他到る所の工場に放置されてあり、地ならし等に使用する以外用途がなく、運搬料さえ払えば幾らでも入手することが出来たもので、丑太郎が自己の費用で買入れて被告に供給したなどというのは全く事実に反する。
尚丑太郎の子正作を雇入れたのは被告の研究が完成した後の昭和十二年十一月頃からのことで、当時正作は京大経済科を卒業して勤め口がなかつたので丑太郎の懇請により被告が雇入れたもので、被告の技術的方面の研究には殆んど役に立たなかつたものであり、決して被告の共同研究者というような筋合のものではない。
(ロ) 右の様に酸化鉄の還元による製鉄方法の研究が完成したので被告は愈々之を工業化することに決め、旧来眤懇な者だけで株式会社を設立しようとして昭和十二年十二月十日村渡円次郎、片山茂、三尾俊太郎、氏家丑太郎等と会合し発起人会を開いたが、其の後右事業に乗気になつて資本を支出する者がなかつたので被告は株式会社の設立を断念し被告個人で事業を始めることを決心した。
(ハ) 昭和十二年末当時の被告の銀行預金及び所持金は合計約二万円位あつたので被告は先ず試験工場の建設を計画し、昭和十三年三月頃大阪市東淀川区本庄川崎町に大阪特殊製鉄所と称する工場を建設し銑鉄及び鋳物の製造事業を開始したのであるが、被告が寝食を忘れて工員と共に製作に努力した結果優秀な製品を生産することが出来、需要家の賞讃を博し、その後事業は順調に発展を遂げ、昭和十四年一月十八日頃尼崎市東浜町に尼崎工場を建設し漸次事業を拡張して今日に至つた。
右途上に於て被告は丑太郎から昭和十三年三月十五日金二千円、次いで同年十月十二日金五千円を支出して貰つたことはあるが、之は株式会社設立のための株金払込として支出されたものでもなく、又丑太郎と被告との共同経営の出資として出されたものでもなく、単なる借受金で然も此の借受金は後記第四に述べる如くその後返済した。
又丑太郎の紹介に依つて上田伊三郎から手形割引の方法で金融を受けたことがあつたが、之も事業について上田から出資して貰つたものではなく単なる借受金である。その御礼の意味で上田には被告工場で使用する諸材料の買入を世話して貰い、又被告工場で生産される製品を売却させたのであるが、上田は右材料の買入について多額の利益を獲得した形跡があり、又被告工場の製品を他に売却するについて約定以上の口銭を取つて不当に高く売捌いた為被告は三国警察署及び大和田警察署に呼出されて取調を受けたことがあり、斯様な事情があつた為上田とは昭和十四年八月頃手を切り、同人に割引して貰つた手形並に取引上の貸借は全部決済した。
尚徳島商店との関係については、丑太郎は丘商事株式会社を辞めて後昭和十三年当時は徳島商店大阪支店の支店長をしていたのであるが、同年末頃丑太郎から被告工場の製品を徳島商店に一手販売させてくれとの申込があり、之に対し被告は金二十万円を前渡金として受取ることを条件として右一手販売の申込を承諾しその旨の覚書を作成したのであつたが、徳島商店は手形割引其の他の方法で数回に亘り合計十万円余を交付したのみで其の余は約束通り履行しなかつた。然しながら被告は同商店の大阪支店長である丑太郎の立場を考慮して他の数個所の鉄問屋から一手販売の申込があつたのに拘らず徳島商店と取引を続けて来た。ところが徳島商店は被告工場の製品に対する世の信頼を悪用し、被告工場の製品中に他の粗悪品を混入し之を被告工場の製品なりと称して他に売却し莫大な利益を獲得した為、被告は昭和十四年四月頃玉造警察署に呼出され、以後ブローカーの手を経て製品を販売してはならぬと注意されたので、同年八月限り徳島商店との取引を打切り同商店との金銭出入勘定も決済した。
又被告振出の約束手形を大阪特殊製鉄所の取引銀行たる野村銀行新町支店及び住友銀行大正区支店に割引して貰うについて丑太郎が連帯保証をしたのは、同人が大阪特殊製鉄所の支配人格として会計事務を担当し銀行との交渉に当つていた関係上保証したまでで、之を以つて丑太郎が自己の信用を利用して金融を得たなどと称すべき筋合のものではなく、之等手形も既に被告の独力で全部決済した。
第三、大阪特殊製鉄所は被告の単独経営で丑太郎との共同経営ではないことは既述の通りである。而して被告は昭和十三年九月頃から丑太郎を被告工場の支配人格として雇入れ当初月給三百円を支給していたのであるが、丑太郎は昭和十六年五月頃から同年十月頃迄病気のため欠勤し且つそれ以前から出勤時間が遅く事務に差支を生ずる如きことがあつたため内部に於ける非難の声が漸く高まつて来たので、被告は丑太郎が病気全快後昭和十六年十一月頃から同人を海津鉱山の鉱山長格として赴任させた。ところが丑太郎は同鉱山の経営に失敗したので同鉱山を一時閉鎖することとし、其の後昭和十七年四月頃被告は丑太郎の奨めによつて長谷鉱山を買収し、丑太郎を鉱山長格として同鉱山に派遣した。元来被告がそれまでに鉱山の採掘事業を経営したのは製鉄事業の原料を得んがためであつて、長谷鉱山は銅山であるから被告の製鉄事業とは関連がなく被告としては同鉱山を買収するつもりはなかつたのであるが、丑太郎が最後のお願いだと言つて切に懇請するので止むなく之を買収して丑太郎を同鉱山に派遣したのである。そして約一年余り丑太郎を同鉱山の経営に従事させたが経営が拙く採算が合わないので、被告は昭和十八年十月頃同年十二月限り同鉱山の経営を中止し丑太郎を解雇する旨同人に申渡した。すると丑太郎はもう一度努力してみると言うのでその通りにしたが、丑太郎は翌昭和十九年五月末頃遂に同鉱山の経営を投出して大阪へ帰つて来て了つた。よつて被告は機械その他の設備が盗難に遭うのを防止する為被告の親戚に当る石塚久之丞を番人として同鉱山に派遣し、其の後被告は同鉱山を菱田某に売却処分したのであるがその代金は最初の買収費の半額にも達せず、結局被告は右鉱山の経営によつて莫大な損失を蒙つた次第である。
尚丑太郎は被告から解雇された後被告に身の振方を懇願したので、被告は昭和十九年六月頃当時被告が相談役をしていた関西鉄鋼統制組合に丑太郎を世話し、爾来同人は終戦まで右統制組合の嘱託として勤務していたのである。
第四、次に丑太郎と被告間の金銭貸借関係については、既に述べた如く被告は上島慶篤からのスチールスクラツプ移入問題で奔走中、丑太郎から昭和十一年五月七日頃その運動費として金百円、同月十一日頃同様金五十円、同月十六日頃同様金五十円、同年七月十五日頃生活費として金百円を借受け、その後昭和十三年三月十五日頃工場建設資金として金二千円、同年十月十二日頃同様金五千円を借受けたのであるが、以上借受金合計七千三百円につき昭和十五年四月十一日丑太郎から東京に在住する親戚の赤堀某へ返済する必要があるから返して呉れとの請求があつたので、被告は右借受金の利息千四百四十二円四十銭の外謝礼の意味も加えて合計金一万円を同日附被告振出住友銀行大正区支店支払の小切手で丑太郎に返済した。(その外に丑太郎の子正作を京大採鉱冶金科へ入学させ卒業するまで三年間その学費を支出してやつたが、之は右消費貸借の返済とは別個に被告が丑太郎の恩義に酬いる為無条件で支出したものである。)
尚既述の如く丑太郎は被告が解雇した後も昭和十九年五月末まで長谷鉱山に留まり、その間昭和十八年十月から昭和十九年五月末までに同鉱山の経営費等一万二百七十六円二十八銭を立替支出したと言つて請求したので、被告は昭和十九年十二月二十六日丑太郎に右金額を支払つた。従つて丑太郎と被告間の金銭関係は之によつて全部決済された訳である。と述べた。<立証省略>
三、理 由
第一、(イ) 昭和十一年四月二十六日被告と氏家丑太郎との間に「上島慶篤からスチールスクラツプ代用銑鉄の供給を受けその販売事業を経営するについては丑太郎と被告が共同事業として経営する」旨の甲第一号証の誓約書が作成せられたが、右スチールスクラツプの移入は結局不可能となりその共同販売事業は実現を見るに至らなかつたことは当事者間に争がなく、而して弁論の全趣旨に徴すれば、(ロ) その後被告は廃物利用による製鉄方法の研究に努力し、昭和十二年九月頃に至つて遂に酸化鉄を還元して製鉄する方法を実験的に完成したこと、(ハ) そこで右製鉄方法を工業的に実施せんとし、昭和十二年十月頃株式会社の設立を計画し、大阪市西区京町堀上通一丁目京町堀ビルデイング内に大阪特殊製鉄株式会社創立事務所を設け、被告と丑太郎外六名が発起人となり同年十二月十日頃発起人会を開いたが、その後株式の引受及び株金の払込等が思う様にはかどらなかつたので、昭和十三年初頃取敢えず大阪市東淀川区本庄川崎町四丁目に大阪特殊製鉄所天満試験工場を建設して事業を開始し、更に同年暮頃から尼崎市東浜町二十九番地に敷地を定めて新工場の建設に取りかかり、翌昭和十四年初頃尼崎工場が完成し、爾来製鉄事業を継続して今日に至つたことが明かである。
第二、原告は「前記甲第一号証の誓約書によつて被告と原告先代丑太郎との間に組合契約が締結され、此の組合はその後両者の協議によつて目的事業が変更され、廃物利用による製鉄方法の研究時代を経て現在の大阪特殊製鉄所に至るまで両者の共同関係は持続し、その間被告は専ら技術方面を担当し、丑太郎は主として資金方面並に原料の買入製品の販売方面を担当して来たものである」と主張するに対し、被告は『甲第一号証の誓約書は将来上島からスチールスクラツプの供給を受け得るようになつた場合には丑太郎と被告とがその販売事業を共同して経営することを約した一つの予約であつて、此の予約はスチールスクラツプの供給を受けることが不能に陥入つた為本契約を締結するに至らずして効力を失つて了つた。仮に甲第一号証によつて組合契約が締結されたものとしても、該契約はスチールスクラツプの供給を受けることを条件としてその販売事業を営むことを目的としたものであるから、その条件の成就が不能となつた以上該組合は目的事業の実現不能に因り当然解散となつたもので、それ以後に於ける特殊製鉄方法の研究及びその工業化は被告の単独経営である』と主張するので此の点を検討する。
(一)、成立に争ない甲第一号証と甲第二号証の一、二以下甲第十一号証の一、二並に甲第三十号証及び弁論の全趣旨を綜合すれば、右甲第一号証作成当時に於て上島からスチールスクラツプの供給を受け得る見込は十分あつたのかも知れないが、未だその供給を受け得ることが確定していた訳ではなく、此のことは被告が甲第一号証作成後直ちに上京して移入運動を開始しその模様を逐一丑太郎に報否していることから見て丑太郎に於ても当時知つていたものと認められ、然も右甲第一号証の文言殊にその末尾に『但し誠意ある貴下の応援を乞ふ』と記載せられている点、及び甲第三号証の二、同第四号証の二、同第五号証の二、三、同第七号証の二、三、同第十一号証の二中には、屑鉄移入の運動費或は家計費として『貸付け被下度』とか、屑鉄販売の準備金として『借用仕り候』とか、『大連行の費用は貴下より御立替願ふことに相成居候』などの記載がある点、或は甲第十号証の二、同第十一号証の二中には『必ず返済致すべく候』などの記載がある点等を合せ考えれば、前記甲第一号証の誓約は将来スチールスクラツプの供給を受け得るようになつた場合にはその販売事業を丑太郎と被告との共同事業として経営する旨の予約を為したもので、且つ此の販売事業の共同経営が実現出来るよう丑太郎は被告を援助する旨約束したものと認めるのが相当である。
尤も此の点に関して被告本人(第一、二回)は甲第一号証の誓約によつて被告と丑太郎間に組合契約が締結されたものの如き供述を為しているが、右供述は甲第一号証の誓約が為されたと謂う事実を述べているだけのことで、右誓約が予約であるか本契約であるかの点についてまで言及しているものとは見られないから、右認定と何等牴触するものではない。
而して甲第一号証の誓約を右の如く解するときは、甲第三十号証によつて丑太郎が昭和十一年四月二十八日頃支出したと認められる金百円、甲第四号証の一、二と同第三号証の二によつて同人が同年五月七日頃支出したと認められる金百円、甲第五号証の一、二、三によつて同人が同年五月十一日頃支出したと認められる金五十円、甲第七号証の一、二、三によつて同人が同年五月十六日頃支出したと認められる金二百五十円、甲第十号証の一、二、三によつて同人が同年六月一日頃支出したと認められる金百円、甲第十一号証の一、二によつて同人が同年七月六日頃支出したと認められる金百円、以上合計金七百円は何れも右甲第一号証の末尾記載の文言の趣旨に則つて右予約を実現し得るよう被告を援助する為に支出したものと解せられ、斯く解することによつて被告が之等金員を丑太郎に返還することを約している甲第十号証の二、同第十一号証の二の記載も正しく理解せられるのである。(若し以上の金員が組合契約に基く出資金であるならば、被告がその金額を丑太郎に返済しなければならぬいわれはない筈で、甲第十号証の二、同第十一号証の二の如き記載は為されないであろう。)ところで上島からスチールスクラツプの供給を受けることは被告の奔走努力にも拘らず不能になつて了つたことは既述の通りであり、その不能が確定的となつたのは甲第十一号証の一、二に被告本人の供述(第二回)を綜合すれば昭和十一年七月頃から同年末に至る迄のことと認められるから、此の時期に於て前記甲第一号証の予約は本契約を為すべき目的の消滅により効力を失つて了つたものと謂うべきである。
(二)、次に成立に争ない甲第十三号証の一、二と被告本人の供述(第一、二回)並に証人大倉三郎、氏家正作の証言及び弁論の全趣旨を綜合すれば、被告はスチールスクラツプの移入が不能となつたので廃物利用による製鉄方法の研究に着手し、当初は染料滓を材料として研究していたが、後には酸化鉄を還元して製鉄する方が容易で且つ有利なことを知り、之を材料として研究した結果遂に昭和十二年九月初頃その研究が実験室的に成功するに至り、その頃丑太郎に右研究の内容を知らせ同人に染料滓の入手斡旋や酸化鉄の所在場所数量の調査等を依頼し、又右研究の成功後昭和十二年十月頃から丑太郎の子で当時京大経済科を卒業した正作を使用し研究の仕上げに努力した事実を認めることが出来る。
原告は右特殊製鉄方法の研究も被告と丑太郎が協議の上両者の共同事業として行つたものであると主張するが、斯様な約束が為されたとの事実は原告提出援用の全立証によつても之を認めることが出来ず、又前記の如く単に丑太郎に染料滓の入手斡旋や酸化鉄の所在場所数量の調査等を依頼して助力して貰つたり、或は丑太郎の子正作を研究仕上げの際使用したりしたからといつて、之を以て右研究が被告と丑太郎の共同研究と称し得ないことは言う迄もない。
(三)、然しながら前記甲第十二号証の一、二と成立に争ない甲第十三乃至第十七号証並に証人氏家正作、菱田耕平(第一、二回)、大倉三郎、橋本多三郎の証言及び原告本人氏家正作の供述被告本人の供述(第一、二回)の一部を綜合すれば、被告は右研究に成功した後之を工業的に実施せんとし、当時被告は資力も涸渇していたので丑太郎に相談して株式会社の設立を計画し、昭和十二年十月頃京町堀ビルデイング内に大阪特殊製鉄株式会社創立事務所を設けてその準備に取りかかり、被告並に丑太郎と榎本角右衛門(スチールスクラツプ移入の話の当時から関係ある人)及び林範二、片山茂、村渡円次郎、三尾陽太郎、三尾俊太郎の八名が発起人となり、同年十二月十日に被告並に丑太郎及び片山茂、村渡円次郎、三尾俊太郎の五名が出席して発起人会を開き、その席上、(イ) 会社設立費用に充当するため各自五百円以上宛を出資すること、(ロ) 既支出金として被告は昭和十一年度中に金五百円昭和十二年度中に金二千五百円以上合計金三千円、丑太郎は昭和十一年度中に金六百五十円昭和十二年度中に金百円以上合計金七百五十円、榎本角右衛門は昭和十一年度中に金千円昭和十二年度中に金二百円以上合計金千二百円を夫々支出したことを承認すること、(ハ) 会社の設立を待たずに先ず中間工場を設置して事業を開始し、会社が設立次第該中間工場を会社の経営に引継ぐこと等の事項を決議し、その後会社の設立は思うようにはかどらなかつたが、翌昭和十三年三月頃には中間工場として東淀川区本庄川崎町に大阪特殊製鉄所天満試験工場が設置され、丑太郎はその際同年三月十五日右工場建設資金として金二千円を出資し、右工場の経営が順調に行つたので同年十月頃から更に尼崎工場の建設に着手し、丑太郎は右工場の建設資金として同年十月十二日金五千円を出資し、翌昭和十四年一月頃尼崎工場が完成し操業を開始したが、其の後事業が漸次隆盛に赴いたのと前記会社の設立が依然進捗しなかつたとの事由により昭和十五年に入つて会社の設立を有耶無耶のうちに打切つて了つたことを認めることが出来、右認定に牴触する被告本人の供述部分は措信しない。
而して右認定の事実に依れば、被告が研究完成した酸化鉄還元による製鉄方法を工業的に実施するため株式会社の設立が計画され、その発起人として被告並に丑太郎外六名が立ち、昭和十二年十二月十日には発起人会が開催されて前記(イ)乃至(ハ)の如き具体的事項が決議せられたのであるから、之によつて会社設立を目的とすると共に中間工場の経営をも目的とする発起人組合が実質的にも結成せられたことは疑の余地なく、たとえ其の後会社が不成立に終つてもそれによつて直ちに発起人組合が当然解散になつたものとは言い得ず、仮に該発起人組合はその目的たる会社の設立が不成功に終つた時に当然解散になつたものと解しても、前記の如く昭和十二年十二月十日の発起人会には被告並に丑太郎も出席して決議に加わり、然もその決議に際し被告と丑太郎並に榎本角右衛門の三名については発起人組合結成以前たる昭和十一、十二年度中の支出(丑太郎の分七百五十円、そしてその昭和十一年中の分の六百五十円は恰も前掲第二の(一)の後段に記載したスチールスクラツプ移入問題当時の昭和十一年に丑太郎が被告を援助する為に支出した運動費並に家計費の合計額に匹敵する)をも発起人組合への既支出として取入れられ、更に其の後丑太郎は該発起人会の決議に基き中間工場としての天満工場及び尼崎工場の建設資金として二回に合計金七千円を現実に出資しているのであるから、右のようなその後の出資もした丑太郎と被告との間には前示甲第一号証の関係もあり右事業を両名の共同経営とする両者間の組合関係に転換されて契約(発起人会の決議によつて為された)の効果が残存したものと解するのが相当である。
即ち被告と丑太郎との間には、先のスチールスクラツプ移入問題及び酸化鉄還元による製鉄方法の研究時代には未だ組合関係は存在しなかつたのであるが、その後右製鉄方法による製鉄事業を工業的に実施せんとするに当り会社設立の発起人組合が結成された時に於て初めて組合関係が生じ、その後会社の設立が思わしくはかどらず、他の発起人組合員が暗黙のうちに組合関係から離脱して了うという情勢に立到つて、中間工場及び尼崎工場の建設のために現実に出資を為した者同志が右工場を共同経営するという形で被告と丑太郎二人だけの組合関係に移行するに至つたものと解せられるのである。
第三、果して然らば被告と丑太郎との共同関係はどの様な状態で何時まで続いたかの点を次に検討することとする。
前記甲第十六、第十七号証、と成立に争ない甲第二十乃至第二十九号証、同甲第三十四号証、証人徳島佐太郎の証言に依り真正に成立したものと認め得る甲第十八号証、原告本人氏家正作の供述に依り真正に成立したものと認め得る甲第三十一乃至第三十三号証、及び商業帳簿たることに争なく其の内容も真正に成立したものと認め得る乙第二号証の一乃至二十七、同乙第三号証の一乃至三、被告本人の第二回供述に依つて真正に成立したものと認め得る乙第四号証の一、二、証人菅沢正二の第二回証言に依つて真正に成立したものと認め得る乙第七号証、及び証人菱田耕平(第一、二回)、橋本多三郎、氏家正作、大倉三郎、徳島佐太郎、武本康治、菅沢正二(第二回)の各証言、並に原告本人氏家正作被告本人(第一、二回)の各供述、及び弁論の全趣旨を綜合すれば、
(一)、氏家丑太郎は共同事業の出資金として前掲七千七百五十円を支出した外、(イ) 天満試験工場が建設された昭和十三年三月当時は鉄鋼売買業徳島商店に大阪支店長として勤務していたのであるが、天満工場が事業を開始してからは度々同工場に出向いて製品の販売に協力し、又その頃一子正作を同工場に雇つて貰つて事業の手伝をさせ、(ロ) 昭和十三年六月二十日頃から上田伊三郎を被告に紹介して同人に製品を販売させたり、或は同人から手形割引の方法で資金の融通を受ける途を講じ、(ハ) 同年七月一日頃からは徳島商店と製品販売取引を開始し、尚同年八、九月頃からは徳島商店の大阪支店長たると同時に右天満工場へ支配人格として入所し原料買入や製品販売の事に当り、同年十二月頃からは徳島商店と製品の一手販売契約を取り結び前渡金名義の下に徳島商店から差入れられる同商店振出の手形を銀行で割引いて貰つて資金を獲得する途を講じ、(ニ)昭和十四年一月尼崎工場が建設されてからは両工場を含めた大阪特殊製鉄所の所長たる被告の下で同製鉄所の支配人格として経理方面を担当し、大阪特殊製鉄所が野村銀行新町支店及び住友銀行大正区支店等から被告振出名義の手形を割引いて貰つて資金の融通を受けるについて、丑太郎がその連帯保証人となつて金融を受ける等所長たる被告の下で丑太郎は支配人格として協力し(所長又は支配人格と謂うも共同事業に於ける地位役割の差異を表わすだけでその名称から直ちに主従関係であるとか共同経営に非ずとか断定し得るものではない)、天満工場時代は丑太郎は月給三百円被告は六百円を受け、尼崎工場が建設された後に丑太郎は月給五百円被告は千円を受けるようになつたこと。
(二)、ところがその頃、(イ) 丑太郎の紹介によつて取引関係を結んだ上田伊三郎が大阪特殊製鉄所から買受けた製品を不当に高く他に販売したため警察沙汰となり、その結果被告も係官から取調を受ける事件が起つたので被告は相当迷惑を蒙り、昭和十四年八月九日頃上田との取引を打切り、同年十一月六日頃迄に同人との間の一切の金銭出入勘定の決済を了し、(ロ) 尚徳島商店との取引についても同商店が協定に違反し、一手販売契約に基く前渡金として二十万円を差入れる筈のところを十余万円しか差入れず、又同商店が大阪特殊製鉄所から買入れた製品を他へ販売するに当り大阪特殊製鉄所の信用を失墜するような行為があつたので、被告は之を遺憾として昭和十四年八月頃同商店との取引関係も之を打切り、翌昭和十五年六月五日頃迄に同商店との金銭出入勘定の一切を決済し、斯様な事由のため丑太郎の立場が次第に悪くなり内部から同人を非難する声も挙り、之に反し被告の撓まざる努力と指導によつて大阪特殊製鉄所の製品はその品質優良を世間から賞揚され事業が漸く隆盛に赴き資金の面に於ても相当余裕が出来て来たので、被告と丑太郎との地位が益々差等を生じ、(ハ) 之に加うるに既述の如く昭和十五年に入つて株式会社設立の計画は有耶無耶のうちに立消えとなる情勢となつたので両者の地位の開きは愈々決定的となり、昭和十五年四月十一日頃丑太郎は金員の必要を理由として被告に対し出資金の返還を請求したので、被告は丑太郎の出資金七千七百五十円に利息千四百四十二円四十銭その他謝礼金等を加えて合計一万円を丑太郎に返還し、尚その頃丑太郎の子正作も大阪特殊製鉄所を辞めて他へ転出したこと。
(三)、其の後丑太郎は健康も勝れず昭和十六年五月頃から同年十月頃迄病臥し、同年十一月頃病気が回復して再び出勤する様になつてからは、当時被告が買収して採掘事業を経営していた滋賀県の海津鉱山に鉱山長格として追いやられ、其処に数ケ月間勤務して同鉱山の経営が不振のためその採掘を閉鎖して後は、丑太郎の勤務部署もないままに、丑太郎は被告に懇請して岡山県の長谷鉱山を買収して貰い、昭和十七年四月頃から丑太郎は同鉱山に鉱山長格として赴いたが、同鉱山の経営も採算が合わないので被告は昭和十八年十月頃同鉱山の採掘を閉鎖して他に売却することを決意し、その旨を丑太郎に伝達したところ、同人はもうしばらく頑張つて採掘を続けてみたいから自己の経費で経営を続けさせてくれと懇請したので、被告も丑太郎の希望を容れて同人にその経営をしばらく委せたが、丑太郎は昭和十九年五月末頃遂に同鉱山の経営を断念して大阪に帰り、以来被告は丑太郎に解雇を申渡して同年九月頃から丑太郎を当時被告が相談役をしていた関西鉄鋼統制組合へ世話し、尚同年十二月二十六日丑太郎の要求によつて同人が昭和十八年十月から昭和十九年五月末迄長谷鉱山経営のため立替えていた経費等合計一万二百七十六円二十八銭を同人に支払い、此の様にして丑太郎は其の後終戦に至る迄右関西鉄鋼統制組合に勤めていたこと、を認めることが出来、前記各証拠中右の認定と牴触する部分は当裁判所は之を採用しない。
而して以上認定の事実に依れば、大阪特殊製鉄所経営の当初に於ては、丑太郎は金七千七百五十円余の出資を為し、且つ上田伊三郎や徳島商店を紹介して之等と取引関係を結んだり金融を得る途を講じたりし、或は被告振出の手形に連帯保証をして手形割引の信用を高めたりして相当の協力を為し、共同経営の実を挙げていたのであつたが、その後上田伊三郎、徳島商店との取引が断絶し且つ会社設立の計画が立消えとなるに及んで、事業に対する影響力という点から見て丑太郎は仕事の面に於ても出資の面に於ても共同経営者としての実質を保ち得ず、事業に対する被告の地位が益々隆盛になるのと反比例して丑太郎の地位は愈々低下し、昭和十五年四月十一日丑太郎が自己の出資金の返還を受けて後は次第にその影を潜め遂に一介の被傭者の地位に堕して了つたことが看取せられるのであつて、斯る状況から判断すれば、被告と丑太郎との共同経営関係は丑太郎が自己の出資金の返還を受けた昭和十五年四月十一日を境としてその実質が失われ、暗黙の裡に丑太郎は前示金一万円の交付により右組合関係上の権利を抛棄させられ、組合関係から離脱して了つたものと解するのが相当である。
従つて本訴提起の昭和二十年九月三日当時或は丑太郎が死亡した昭和二十三年三月十五日に至る迄組合関係が存続していたとの前提に立つて組合の解散確認並にその清算手続を求める原告の本訴請求は失当として棄却を免れない。
尤も丑太郎がその資力信用共に被告に追随することが出来なくなり遂に被告との共同関係から脱落せざるを得なくなつたことについては、先に被告が鋳物工場の経営に失敗して困窮に陥入つた当時丑太郎は被告の苦難に対して相当援助の手を差伸べたことでもあるから、丑太郎が老朽脱落して行くについて被告が果して十分慰藉報恩の途を尽したか否かは自ら別個の問題に属し、之等は大阪特殊製鉄所の費用に於て丑太郎の一子正作を京大採鉱冶金科に入学卒業せしめたこと等を勘案しても尚道徳的には相当考慮を要するものがあるであろう。
以上の次第であるから原告の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し主文の通り判決する。
(裁判官 山下朝一 石沢三千雄 岩崎康夫)